SCIフォーラム インタビュー【中島 康滋】

中島 康滋(なかしま こうじ)

イノベーションファクトリー株式会社 代表取締役

愛知県名古屋市生まれ。18歳で上京し起業。ベンチャー企業からソーシャルまで、およそ20社の創業、30社の経営を経験。25年間の経験を地元の東海地域に貢献したいという想いから、起業家育成と事業支援、イノベーション創出を目的に名古屋にUターン。イノベーションファクトリー株式会社として活動を開始。現在はスタートアップ/NPOのボードメンバー、企業や自治体のイノベーション創出支援などに携わる。

インターネットの誕生を目の当たりにし、音楽配信を思いついた

――中島さんがこれまでにされていた活動についてお聞かせください。

中島 私は名古屋市の生まれで、高校を卒業し18歳で上京しました。音楽家として仕事をしていくことを目指していたのですが、商売にしていくのは時間がかかりますし、東京じゃないとチャンスがないと思い、まずは音響の専門学校に入りました。
楽器を全て売ってMacを買い、コンピューターで音楽制作はじめたすぐ後に学校の先生から仕事をもらうようになりました。個人事業主として確定申告をしていたので、振り返ればその高卒18歳が起業ということになります。
レーザーカラオケが通信に変わる時代でしたので、音の悪いカセットテープを渡され、すべてデジタルデータとして完コピする仕事で鍛えられ、その後、CMなどの音楽を作って仕事をしているうちに、ヤマハ株式会社でシンセサイザーを開発する仕事に声がかかり、数年間、毎週東京と浜松を往復していました。
ある日、開発の人が僕を呼んで見せてくれたのが「インターネット(正確にはブラウザー)」でした。それまでパソコン通信でしたから、インターネットの誕生とそれを目の当たりにした時に、「あ、音楽が世界に届けられる」と直感的に思ったのです。

――インターネットと音楽が、その時にどうして繋がったのですか?

やっぱり音楽を作る人は、音楽を聞いてもらいたいのです。だからデモテープを配ったりライブをしたりしながら多くの人に聞いてもらうチャンスを作ります。しかし一番良いのはアルバム(CD)を作って売ってもらうことなのですが、それもレコード会社に頼むしかないですし、ビジネスなので売れる音楽しか取り扱ってくれないわけです。
しかも当時の大手レコード会社は、ミュージシャンと契約をして売れる音楽(売りやすい、15秒だけ耳障りの良いものなど)を作ることを強要していて、でも契約で他社に移ることもできない状態を目にしていました。
だから、「音楽を作った瞬間、その音楽を世界中に届けることができれば、音楽は開放される!」という音楽配信の流通改革(今でいえば、イノベーション)が鮮明にイメージできました。
ミュージシャンの活動を開放したい、音楽を自由な市場に開放したい・・・そんな思いから研究サイトを立ち上げ、日本中のインディペンデントレコードの会社から楽曲を集めました。そしてその後、マイクロソフト社などから出資を受けて日本で初となる音楽配信(著作権保護機能つき)を実現しました。翌年にiPodが出て市場は一気に広まっていきました。
いま振り返ると、これはひとつのイノベーションでしょうし、ある課題解決でもあったと思います。私自身のこうした原体験がその後、多数の起業に繋がっています。

ベンチャーの少ない名古屋に戻ったら、自分は失業するのかと・・・

――25年間、東京で多数のビジネスを経営されていたのに、なぜ名古屋に戻ってこられたのですか?

中島 まずは、子育ての環境を求めてです。私が名古屋市の外れで田と畑の中で育ったので、子どもにもそういう感性が育まれる環境で一緒に生活がしたかったからです。また、東京はとても刺激的な場所ですし、スピード感も全く違いますが、遠隔地でも仕事が可能なテクノロジーの進化があり、そしていずれ名古屋も東京と40分で結ばれることを考えると、今しかないというタイミングでした。

もう一つ大きかったのは、名古屋へのUターンを検討していた頃、当然ながら私自身が今後どのようなビジネスをしていくのかということについて考えていたのですが、東京とは環境がまるで違うことがわかり、最初は戸惑いました。
まず、東海圏でのベンチャー起業が少なく、そして社会課題に関連するビジネスも少なく、また社会課題に関わるソーシャルビジネスの経営力が弱いことについてです。東京ではベンチャーの起業家が溢れかえっているので、支援する先もあれば、投資家も多数いるので、私自身のビジネスが成り立ちます。
つまり、名古屋に戻った僕は・・・失業するわけで(笑)、果たして戻って食っていけるのかと躊躇したのを覚えています。
しかし私はいつも逆境が好きなようで、自分が支援者となってベンチャー起業家が生まれる環境を作ろうと考えたのです。
特に、社会課題を解決しながら事業としてもスケールアップするような「ソーシャルベンチャー」をたくさん生み出して、いつか自分の子どもが18歳になったらその選択をしたくなったらいいな、と思っています。

SDGsはブームじゃない、いや、ブームで終わらせてはならない

――SCIフォーラムにおいてはどんな役割をされていますか?

中島 SCIフォーラムが生まれる前の活動に、NPO法人ISLが実施した社会イノベーター公志園というものがあります。その活動の前進である社会イノベーションセンターの社会起業家育成プログラムに、私はメンターとして関わっていました。
私はそれとは知らず、毛受さんに誘われて2年ほど前に開催された社会イノベーションフォーラムを見に行くことになり、そこから次年度の計画を作る中で、私も関わるようになりました。
当時は社会起業家を企業が支援するものだったのですが、今の時代はその逆で、企業を社会起業家が支援する時代じゃないでしょうか?ということを発言しました。最近ようやく東海でもSDGsについて話されるようになりつつありますが、東京はオリンピックに向けてSDGsが盛り上がりつつありました。私自身、ベンチャーから上場企業、NPO法人も15年以上経営している中で、そうした社会環境の中で大きなシフトが起こっていることに核心がありました。
SDGsはブームじゃない、いや、ブームで終わらせてはならないと思いましたし、社会課題を解決するという言ってみれば解決方法のわからないものに挑むことこそが、ベンチャーでありイノベーションであると思い、私自身が活動してきました。
志のある方々が次を模索している中で、私自身がこの活動の必要性を話しているうちに、自分が全体をプロデュースすることになりました。(なってしまいました。(笑))

地域の人と組織が、自らの地域の未来を決めなければならない

――東京でのつながりも深い中島さんなら、東京の団体の名古屋支部を作っても良かったのではないでしょうか?SCIフォーラムをなぜこの地域で、しかも社団法人にしたのでしょうか。

中島 私が東京で仕事をしている中で、「東京方式が地方で通じない」ことが、年々増えているなぁと感じていました。特に、地域に根ざしたものは、それぞれの事情が違いますし、歴史も想いも異なります。地方の事業を手伝うこともありましたが、東京主導で地方に活性化の税金が投入されても、結局、東京の会社が吸い上げて東京の納税しているわけです。また、合理的に物事を進める中で、その地域の人の想いやプロセスが拾われず、事業が終わって責任所在が不明になっているものも旗から見てきました。
そんな経験から私は、それぞれの地域がチカラをつけて、それぞれの地域の人と企業とお金がちゃんと循環し、自らの未来を決めていくことが必要だと、強く感じました。
ですから、多少苦労しても、この地域の人と組織が自らの地域の未来を決めていくために、また、一時的な盛り上がりだけでなく未来に継続して想いが引き継がれるようにと、そこに法人であることの意味があると思うのです。人の想いが集まって作られるのが社団法人ですから。

社会感度を高め、感性を育んでいく

――今後、SCIフォーラムに期待することを教えてください

中島 サスティナブル コ・イノベーション、つまり、持続的なイノベーションには共創が必要ですから、企業とソーシャルとが新しく出会える場が生まれることを期待しています。
同じ目的であっても成り立ちもプロセスも異なりますから、言語もかなり違うので、通訳が必要になります。また、利害関係のある人同士は、やっぱり腹を割って話できません。ですから、そうした翻訳機能や、サードプレイス的な場所としての橋渡し的な役割ができればと思っています。

私は、感性の研究をずっとしていますが、自分が社会課題の当事者になるということをイメージできない人が多くいます。
旅行先で眼鏡を無くせば、そこから視力を奪われ不自由になりますし、歳をとれば必ずどこか機能は衰えます。
いま、悲しい事件や事故が起こっていますが、それがどこか遠くの出来事ではなく、私たちの身近なことであり、場合によっては当事者にもなるわけです。
そうした感覚を自分ゴトとして捉えていくためには、自分自身の社会感度を高くしていく必要があります。
私は、ひとりひとりがそうした感性を大切に生きていく選択ができれば、SDGsの本質的な理解も深まり、企業にもイノベーションが生まれ、社会課題も少しづつ改善されて良い未来を描いていけるのではないかと思っています。

 

(インタビュアー SCIフォーラム編集部)